七宗町神渕杉洞の岩瀬(いわぜ)から上之保、田尻へ続く町道があるが、その辺りを「番所」という。昔ここに「山番所」があったそうだ。
その裏山は岩山となっており、ここに地元の人たちが「円空洞」と呼ぶ自然の岩屋(洞穴)がある。町道から東へ50mほど山を登ったあたりである。
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説 明 図
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岩屋の中はコウモリが住んでいるほどでけっこう広い。その右側の壁には祠が作られ、
そこに「播隆」と花押が刻銘され「南無阿弥陀仏」と独特の美しい書体の名号碑が祀られている。
当初からこの洞穴に祀ったためか、苔も全くつかず、150年もたったと思われない位美しい石碑である。
播 隆 名 号 碑
由 来
「円空洞」には「バクチ洞」という別名がある。
江戸時代、ここより奥地の広大な山林は尾張徳川家の直轄領であった。
そのため、御用材の伐採や運搬などの仕事に各地から人夫が集まり、にぎわいを見せていた。
その仕事は重労働であったといい、何の娯楽もないこの地での唯一の楽しみはバクチであったが、
役人に見つからないようこの洞穴で盛んにバクチ場が開帳されていたことから、「バクチ洞」と呼ばれるようになったようだ。
岩屋の上に登ると見晴らしがよく、見張りを立てるには打ってつけの場所となっている。
円空は寛永9年(1631)美濃国に生まれ、元禄8年(1695)岐阜県関市池尻の弥勒寺にて入定したが、
23才の時、12万体の仏像作りを富士山の浅間神社で発願した。現在全国で約3千体の像が発見されている。
その円空がここ岩瀬の岩屋を仮りの宿として、付近の木を伐採しては像を刻んだといわれる。
近隣の上之保村、金山町与一野にみられる円空仏にも神渕村と書かれているそうだ。
七宗町内では小穴地区を中心に8体が発見されている。また、ここには円空堂跡もある。
「当時、上之保村には尼寺があって、そこへ円空が杉洞から通っていた」という伝説が上之保村に残っていることからも、
この洞穴で円空が活動したことは間違いないように思われる。
付近の石碑
「播隆名号碑」は、もう1体、神渕の寺洞公民館裏山にある。播隆の花押と書体は「円空洞」の石碑と同一である。
(きれいな名号碑を見たい方は写真をクリックして下さい。)
播隆は天明6年(1786)越中国新川郡河内村(現・富山県大山町)に生まれ、天保13年(1842)10月21日、中山道太田宿脇本陣にて入定している。
播隆は、北アルプスの名峰・槍ヶ岳を開山したことで有名である。
日本アルプスの名前は、明治になって英国人のウォルター・ウエストンの書物「日本アルプスの登山と探検」によって広く世界に知られるようになったが、
そのウエストンに先立つこと66年前の文政9年(1826)には、44才の播隆が槍ヶ岳に初登頂し、2年後には、仏像を山頂に安置して開山を成し遂げている。
しかも驚くべきことに、登山の安全をはかるための鉄鎖を槍の穂先に掛けるなど登山道の整備に努めている。
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